Friday, May 30, 2008

Self-Reference TEXT


スチュアート・ホール


今は青土社現代思想ガイドブックシリーズの「スチュアート・ホール」を読んでいる。スチュアート・ホールはカルチュラル・スタディーズの創始者の一人に数えられるイギリスのいわゆるニューレフトの知識人だ。このシリーズでは他にジャック・デリダの解説書を読んだことがあるのだが、その本は非常に面白かった。ただデリダの思想について解説を加えるだけではない、デリダ的エクリチュールの実践としてのテクストが展開されていて、非常に本として読み応えがある刺激的なものだった。これまでのところ「スチュアート・ホール」についての本書がデリダ本ほどのインパクトを持っているようには感じられないが、ふと、ある人の解説本を読むということは、一体どういうことなのかが気になった。

そもそもデリダならデリダの思想について知ろうというとき、解説本を読むくらいなら原典を当たれという至極真っ当な意見を見聞きすることがある。当然それはそうなのだろうが、やはり難解な思想家なり何なりについてまずとっかかりでも掴んでみたいというのも無理からぬことだろう。しかし、なぜ原典より解説本のほうが解り易いのか。解説本はあくまで解説を施している対象の著者なり著述なりについて二次的に記述=翻訳されたものであるはずで、であるとすればもっとも理解に易いのは原典の方であるはずだろう。もちろん言葉遣いのような技術的なレベルで分かりやすさを上げることも可能だろうが、しかしそれ以前に原典はそれ自身が自己の内容についての説明を行っている訳ではないという、自明な事実にその非容易性の多くを負っているはずだ。我々が著述を行うとき、どんな記述であっても(それは思想や文学といった人文系の書物に限らず、科学技術のプログラムや音楽の譜面についても同様だろう)、その記述=エクリチュールはそれ自身について記述することはできない。今まさに生成されつつあるこの文章についての解説は、別のテクストにゆだねるほか無い。この自己への限りない到達不可能性によって、こと思想というその自己正当性を保証することを求められる形式のテクストは、その読解を他者へとゆだねざるを得ないのではないか。そしてその読解の多様性をこそ現代の思想は考えてきたはずである。

この自己への言及/到達不可能性については、円城塔『Self-Reference ENGINE』で改めて考えさせられた。この作品、読了したが、本当に刺激的で、そのうち少しはまとめてコメントしてみたいところだ。

ジャック・デリダ

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