Monday, March 07, 2011

Apple, Google, Facebook

iPad 2の発表で、またApple陣営と、Honeycombを発表したばかりのAndroid陣営の比較や対立構造についての記事がネット上に乱立している。製品の評価に違いはあれ、どれも取り立てて新しい主張を展開しているわけではない。大雑把に言ってそれらの主張は、Appleはハードのスペックだけではなく、ソフトウェアとの一体感を背景とする「エクスペリエンス」(しかしこの言葉、訳が難しいとはいえ、外来語のまま扱うのも胡散臭いし、かといって「体験/経験」と訳すのも気持ちが悪い)がすばらしく、またiTunesを含めたプラットフォームこそがAppleの強みであって、そのような環境はAndroidにはない。逆にAndroidはオープンソースであること、またそのようなオープンでリベラルな思想に基づく、いってしまえば開発者にとっての桃源郷というか、自由度が高くどんなことでも実現可能であるかのような共同幻想を与えられており、そのような自由を知ってしまうとAppleの閉鎖性はなんと狭苦しいことか、というわけである。ここまでの認識はもはやステレオタイプであり、しかも別段訂正する要素もない。個人としては、購入したアプリが今後ずっと使えそうであるとか、キャリアに囲い込まれることはなさそうであるとかいった理由もあり(もちろんApple自体に囲い込まれているわけではあるが)、Appleの製品を今後も利用するだろう。

ところで、このApple対Androidの図式は、基本的にFacebook対Googleの図式と符合する。GoogleがWebのなかでオープンネスを推進することにその企業生命をかけていることに異論はなかろうが、このオープンネス、つまりどこからでものぞき見られてしまう広大な空間の中に、外界から隔離され、信頼関係の範囲に限定したゾーニング空間(これはショッピングモールともつながるだろう)を構築した起業こそがFacebookである。もちろん日本におけるmixiなど、Facebookの以前からこのような閉鎖空間は作られてきたが、彼らほどの規模を実現した例はない。こちらのFacebookとGoogleの戦いは、少なくとも短期的にはFacebookの方に分があることは誰しもが感じるところだろう。これはこれまでのGoogleの検索を中心とした情報の流れが、<発信者-Google-受信者>という、出所と受け取り手が明確な関係から、ソーシャルグラフを介したユーザー相互のバケツリレー方式で網の目上に広がっていく、SNS以後の新しいフェーズに移行したことを表しているだろう。このようなネットワークが広がるためには、プラットフォーム自体への信頼と依存が欠かせないが、Webという視点で言うと、この信頼感の獲得競争において、FacebookおよびTwitterが現時点での圧倒的な成功者であることは言うまでもないだろうし、そしてもちろんデバイスという面では、Appleが明らかに先行している。

もちろん、スティーブ・ジョブズのいう統合対分断(Integration vs Fragmentation)という対立軸は、今後も残り、そして時勢によって優劣は揺れ動くだろう。(文脈を外れたら、どちらが望ましいことなのか判断できないだろう。これはそっくりModern vs Post-Modernと読みかえられる。) 少なくとも00年代はGoogleのオープン性が一人勝ちをしていたが、現在はApple/Facebookが勝ち組だ。そして今後の展開は、ソーシャルメディア上を流れる、(動物化した)個々人の欲動が、群としてどのように動いていくかにかかっており、そしてこのなんとも不気味な怪物(サマーウォーズのラブマシーンとは、この怪物のことだろう)の行く末を予見するのは、容易なことではない。

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